ドルフィンポートの思い出・ちゃんびいの場合

ちゃんびい

ドルフィンポートが取り壊されてしばらく経つ。

先日、跡地に行ってみたらなんとなく物悲しい気持ちになった。

かつてあったものがなくなった広い土地はどこであっても悲しいのか、そこにまつわる思い出もなくなる気がするから悲しいのか、それとも私たちは悲しいなんて思っていなくて、何かが取り壊されたニュースや記事で本当に思い入れのあった人たちの残念がる語りを見聞きして自分まで悲しくなったように錯覚した経験を、こういうときセンチメンタルに反復したくなるだけなのか。

ドルフィンポート、という施設がそもそもなんであったのか、説明するのは意外と難しい。

天文館から少し歩いたところにあった。商業施設と言っていいだろう。停泊する船から降りてきた商人や観光客でにぎわう港町、のようなイメージを抱かせた。デッキの床を歩くと足音が大きく鳴った。足湯があった。鹿児島はどこにでも足湯をつくってしまう。

回転寿司屋、ハンバーグ屋、ラーメン屋、コーヒー屋など、チェーンを中心とした飲食店があり、土産物屋や物産館やアジアン雑貨の店があり、ファミリーマートがあった。見晴らしのいい展望台のような場所や、噴水や水路もあった。イベントスペースでときどき人が歌ったり、踊ったりしていた。顔はめパネルがあった。私の母親は、元号が令和に決まったとき、官房長官が「令和」を見せる場面のパネルに顔をはめて笑っていた。

道路を挟むと芝生の広場があった。そこでフリマなどの催しが行われることもあれば、サマーナイト花火大会の日は絶好の鑑賞スポットとなり、人でごった返した。冬は、写真を撮っているうちにすぐ通りすぎてしまう規模のイルミネーションで彩られていた。

ただ、そういう特別な日とか休日以外はわりと人が少なくて、閑散としている飲食店もあったし、暗くなった広場のベンチには、ときどきカップルが座っているくらいだった。湾の静かな波が揺れ、芝生の下の黒い土に水の音を響かせていた。

海が見えるといっても、ここで眺めるのは湾だった。どこへ流れていくこともない、とどまる暗い塊だった。

私はここへよく回転寿司を食べに来たものだった。

めっけもん、という、スシローとかくら寿司よりは値が張るけれども、回らない寿司屋よりは安い価格帯で美味しいお寿司を楽しめる店があった。

めっけもん | 寿福産業
毎日旬の地魚を厳選して入荷。鹿児島の豊富な海の幸を楽しめます。

今は近くに移転している。先日行ってみたら、元気に営業していてほっとした。

私の家族の贅沢といえばめっけもんを食べに行くことで、車を駐車場に停め、多少待ってでも店へ入り、回転寿司を食べていた。皿によっては900円とかするものもあり、高校生くらいまでの私は何もわからず食欲のままに寿司をむさぼっていた。駐車券をお買い物金額に応じたサービスで無料にして帰った。

それから大学へ入り、中退し、実家へ戻ってからも、ときどきめっけもんへ行くことがあった。ただ、会計するのはいつも母親で、私はレジの横で支払いが終わるのを待って「ありがとう」と言うことで情けない気持ちにケリをつけているつもりだった。私は友達が少ないので、回転寿司へいっしょに行って自分で会計するという経験がなかった。

そんなある日、職場で、回転寿司の話題になった。私が大食いであることを知っているスタッフのひとりが、「ちゃんびいさん、回転寿司でいくらくらい食べるの?」と言った。

答えられない自分が恥ずかしかった。これではいけない、と思い、次の給料日、ATMでお金を下ろし、アミュプラザの地下の寿司まどかへ行った。

めっけもんは勇気が出なくて行けなかった、というと、寿司まどかに失礼なのは承知の上で言うが、寿司まどかなら大食いしても財布へのダメージは少ないだろうというあさましい考えのもとの行動である。

閉店間際のあまりネタの流れていない時間帯だった。売り切れのメニューもあったが、とりあえず自分の食事の規模を知るため、値段は気にせずどんどん食べた。

結果として、2600円くらい払ったと思う。これがゴールデンタイムのめっけもんだったとしたら、大変な値段になっただろうと思いながら店を出た。当時は保育士で貧乏だった。サラリーマンになった今でも、めっけもんでバカ食いする余裕はまだないから、やはり親はリスペクトするべきものである。

いま思えば、私はときどきドルフィンポートを訪れており、前の職場のスタッフといっしょにびっくりドンキーへ来たことがある。年末、友人と、びっくりドンキーへ来たこともある。びっくりドンキーが特別好きというわけではないが、びっくりドンキーくらいの価格帯でびっくりドンキーのような食事をしようと思うと、ドルフィンポートにおいてはびっくりドンキーへ行くしか選択肢がなかったのではないだろうか。

膝の手術をするため、島からトッピーでやってきた祖母を連れて、母親と三人で、海鮮丼を食べたこともある。あら汁がうまかった。祖母は刺身定食の白飯を残し、私に分けてくれたが、おかずがなかったので、ただ白飯だけを処理した。祖母を連れてびっくりドンキーへ行くことはできなかった。

2階にあるタリーズコーヒーへ行ったのは冬の日だった。外のテラスでカフェラテを飲もうと思ったが、寒くてやめた。鐘を引っ張ってゴーンと鳴らす男女を見下ろしながら、イルミネーションの近くに立ち、写真を撮りましょうか? と笑顔でたずねるフリーランスの旅するノマドワークがあれば、儲からなくても幸せかもしれないと思った。

ドルフィンポートのてっぺんのライトは、明日の天気によって、光の色が青とか赤に変わるらしい。それを教えてもらったのが、おそらく最後にドルフィンポートを訪れた日だから、その後、私はライトを見て明日は晴れるかなとか思う機会はなかったし、もし見ていたとしても、何色が晴れで何色が雨なのか、きっと思い出せなかっただろう。色の決まりをおぼえるくらいに私が冷静でいられなかったのは、そのとき教えてくれたその人が泣きやむのを、湾のそばで待っていたからだった。

この日は「全国陶器まつり」をやっていた。全国的にやっているイベントを鹿児島でもやっているのか、全国の陶器が集まるイベントの鹿児島デイズが今なのかよくわからないが、「陶器まつり」は常に開催されている気がしてならない。ここと甲突川沿いは、行くたびに陶器まつりか、木市をやっている。そう思えてならない。

ドルフィンポートにまつわるあれこれを思い出したけれども、どれも取るに足りないエピソードのようで、それがまた物悲しい。しかし、それらを、ことさら過剰な感傷に浸してしまうのではなく、ただそこに結びつく数々の過去として記しておくことが大事なのではないか。なぜなら、本当に大事な思い出はきっと簡単に語れないだろうし、ときどき掘り起こして、ああ、そんなこともあったな、という程度の記憶の集積こそが、そこに生活する人々のリアルであり、生活そのものを支えているのだと、こういう砂漠みたいな土地を歩くたびに、潮と泥のにおいの入り混じった風を浴びるたびに、強く感じるからである。

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