さうれぽの者として「花束みたいな恋をした」を観て思ったこと

映画
日比谷公園の噴水が
春の空気に虹をかけ
「神は細部に宿る」って
君は遠くにいる僕に言う 僕は泣く

小沢健二「アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)

好きな映画は「キッズ・リターン」のちゃんびいです。

先日、「花束みたいな恋をした」という映画を観ました。

映画『花束みたいな恋をした』公式サイト
主演:菅田将暉、有村架純、脚本:坂元裕二、監督:土井裕泰 大ヒット上映中!

都会の若者たちをあつかっていたり、文化的資本にアクセスしやすい環境が舞台であったりする作品にふれると、数年前までは「残念ながら鹿児島ではこんなことありえないんだ」と悲しくなったものですが、さすがの私も27歳にもなると、自己憐憫のために無理して現状を卑下することはなくなりました。

とはいえ、鹿児島のリアルを伝えるメディア・さうれぽを運営している人間としては、「花束みたいな恋をした」のような映画を観ると、やはり、その舞台である都会と、自分がいま住んでいる地方を比較していろいろ考えてしまうこともあり、今日はそれについて書いてみたいと思います。

共有できる可能性の低さ

「花束みたいな恋をした」の絹と麦が共有するのは、音楽、映画、文学、漫画、お笑い、など、その多くが「サブカルチャー」と呼ばれるものです……というのは少し違う気がしていて、同じ脚本家のドラマで松たか子とKID FRESINOが堂々と主題歌を歌いあげている現在において、サブカルチャーもメインカルチャーもないのではないか、その点はこの映画のストーリーの始まりとして設定されている5年前とはずいぶん状況が変わっているな、と思ったものです。

STUTS & 松たか子 with 3exes – Presence I feat. KID FRESINO (Official Music Video)

高校時代、「KTSの日」に笑い飯とパンクブーブーを県民交流センターへひとりで見に行って興奮し、学生時代にceroを聴き、保坂和志に刺激され、社会人になってからも、今村夏子を天才だと思い、トイレを我慢しながらクーリンチェを見てあれこれ考え、今も営業の合間に車で小山田浩子を読んでいる私は、それらの固有名詞が出るたびに自意識をチクチクやられているように思い、シネマコンプレックスの座席でうつむきました。

今まで「サブカルチャー」としてふれてきたつもりはありませんでした。ただ、主流ではない、という自覚はありました。それらの趣味嗜好を、絹と麦は共有することで、大げさに言えば運命を感じたのでしょう。

私の場合、特に誰と共有することもなく、ひとりで、いいなあ、と思って楽しんでいたのですが、二人のようにぴったり感性が合ったように思える相手がいたのなら、それはそれで幸せだったろうと思います。

共有できないことを地方という環境のせいにするのは、強引かもしれません。自分が好きなものを同じように好きだと思う人間が周辺に少ないのは、分母が少ないぶんしょうがないことです。「単独ライブ」や「映画館」や「カフェ」といった機会、場所が限られていることも、はなからそういうものだと思っていれば、あきらめがつくというものです。

下北沢泯亭 ご飯が炊かれ 麺が茹でられる永遠
シェルター 出番を待つ若い詩人たちが
リハーサルを終えて出てくる

たとえば私は、以前、天文館シネマパラダイスでわずかな期間に上映されていた「寝ても覚めても」を、日曜日なのに座席はスカスカのスクリーンで観たとき、すさまじい衝撃を受け、それこそ寝ても覚めても「寝ても覚めても」について考えるくらいでした。こんなものを堂々と作られてしまったら、何かを表現することには常に絶望がつきまとうのだと意識せざるを得ないじゃないか。

あとでアマゾンでレンタルしてもう一度観て、やっぱり素晴らしい作品だ、と思ったのですが、いっしょに見ていた人は途中で寝ていました。

私は、これだけすごい作品なら、鹿児島で上映期間が短くてもかまわないと思いました。私が感動を受けた事実があれば、いっしょに観た人と共有できなくても大丈夫。職場の、知り合いの、地元の友達の、ほかの誰も観ていなくてもいい。

そう思えるのは、地方にいるからこそだと思います。直接共有できる可能性が低いからこそ、妙な期待をしなくて済むし、ひとりで抱え込むことを覚悟できていたから、じっくり自分の中で反芻し、味わえました。

「花束みたいな恋をした」の中で、軽蔑の対象として繰り返し口にされる「今村夏子のピクニックを読んでも何も感じない人」はたしかに存在するのでしょうが、そんな人が大部分であると肌で感じられるのが、地方であり、だからこそことさら誰かを軽蔑せず、作品そのものに向き合えるのだと思います。

お金になる可能性の低さ

この映画を観てから何度も考えているのが、「麦はなぜ絵をやめてしまったのか」ということです。

私も、小説を書くのが好きで、今も地道に続けていますが、なぜ続けているかというと、好きだからです。小説を書くのは楽しい。もちろん、それがかたちになって、多少収入になるのであればうれしいけれども、今はまだその段階にないから、少しずつレベルアップできるように、続けていくつもりです。

麦も、絵を描くのが好きなのであれば、仕事がきつくても続けるはずじゃないか。時間をつくってでも取り組むのが、本当にやりたいことじゃないか。

仕事がきついと「パズドラくらいしかする気になれない」と思うのもわかるし、私も80時間残業した先月なんかは本を一冊も読み通せなかったけれど、それでも、本当に好きだったら、続けると思う。

「お金になる可能性」でいえば、私の小説と、麦の絵では、後者のほうが高いでしょう。そして「お金になる可能性」があれば、そちら一本で稼げるように頑張りたいと麦が思うのも、当然のことです。

そんな考えも、地方に住んでいれば生まれてこなかったのではないかと私は思います。都会は、絵・イラストが仕事になりえる機会、人脈、環境が豊富であるため、また、この映画に出てくる麦の友人のカメラマンのように、周囲に表現で生計を立てようとしている人間もいるため、夢を持ちやすいのではないか。これだけあらゆる手段で表現を発信できるようになっても、いまだに人間関係のつながりや、顔を出せる・直接話せるチャンスの有無が結果につながる部分はあると思います。

地方の場合、とりあえず仕事しながら趣味として絵を続けて、ゆくゆくは収入になればいいなあ、と考えざるを得ないため、かえって好きなことを続けやすいのではないかと思ったのです。

地方で表現をすること

地方と都会、特にどちらのほうが幸せだと主張したいわけではなく、この年齢になって若々しく都会にあこがれることはさすがにないものの、やはりこうして比較して考えてしまう自分のコンプレックスと煮え切らなさが、鹿児島でなにか表現活動をしている若者のリアルではないかと思い、記した次第です。

きっと魔法のトンネルの先
君と僕の心を愛す人がいる
汚れた川は 再生の海へと届く

この曲をはじめて聴いた数年前は、ちょうど小説やエッセイがうまくいっていた時期でした。

授賞式で東京へ行った際、下北沢を友人と歩きました。

「ここにいたら楽しいかなあ」と私が言うと、友人は「まあ刺激は受けるやろうなあ」と言いました。

鹿児島へ帰り、「アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)」を聴きながら、歌詞にあらわれている小沢健二と岡崎京子の関係性をうらやましく思い、俺は共有できる相手も持たずに地方で孤独に頑張るしかないのだ、と勝手に悲観した頃もあったのですが、まあ共有できるからうまくいくわけでもないし、表面的な美しさばかりに気を奪われて浮かれて自己鍛錬を怠ることがあってはいけないぞ、と、「花束みたいな恋をした」を観てあらためて自分に言い聞かせたのでした。

ちゃんびい

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